Beyond the Silence

Sound of Science

貧困と語彙の関係

English Tutorに紹介されて読んだ新聞記事に、興味深いデータが載っていた。

 

Family's income level can have startling impact on speech development 

 

と題する記事で、先天性難聴 (先天聾)に対する人工内耳術後の言語獲得と世帯収入には関係があるという研究結果がシカゴ大学の医師によって発表された。人工内耳手術をうけた子を持つProfessional familyとFamily on welfareの2群で言語発達を比較すると大きな差が出たが、それはFamily's incomeと相関する家庭内での言語量からくるのではないか、という主張だ。

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簡単に先天性難聴 (先天聾)とその治療法である人工内耳について触れておく。空気の振動である音は鼓膜から中耳を伝って内耳へ至り、内耳有毛細胞 (このブログのヘッダ画像にある、淡く赤く染まっている細胞)で電気信号に変換される。信号は聴神経 (赤い細胞をとりまく白い線維状の構造物)によって大脳聴覚野へ送られ、音声として処理される。ヒトの聴覚は胎生6か月頃には完成するので、胎生期そして出生直後から音や言葉を聞き続けることによって、この電気信号は音であると脳が認識する回路が成立する。これが聴覚である。

この仕組みのどこかが先天的に障害されているのが先天性難聴で、有毛細胞の障害があると重度の難聴 (聾)をきたすことが多い。先天聾の児は視覚など他の感覚器に、本来ならば聴覚を司るはずの脳の領域を”奪われる”ことが知られているが*1、赤ちゃんの脳は柔らかい (=可塑性がある)ので、できるだけ早期に音声信号を入れてあげることによって聴覚の回路を奪い返すことが可能で、補聴器や人工内耳といった聴覚支援機器によって介入する必要がある。

補聴器は、形状や性能はさまざまだが基本的に音を大きくする器械で、内耳有毛細胞が機能しない場合は効果を発揮できない。有毛細胞の代わりに電気信号を直接神経に届けるのが人工内耳で、こちらは手術によって内耳に挿入する必要がある。デバイスの大きさや手術の安全性などから、ある程度大きくならないと手術の適応がない。聴覚のことを思うならば一刻も早い音声入力が望ましいというジレンマがある*2

内耳有毛細胞のうち入力を司る内有毛細胞 (ヘッダの赤い細胞)はおよそ3,500個/耳。対して人工内耳の電極は、機種にもよるが20前後。例えるならばグランドピアノと鍵盤ハーモニカのようなもので全く同じではないため、手術後に専門のスタッフによる (リ)ハビリテーションが行われる。内耳以外に問題がなければ、かなりのレベルまで言語獲得を期待できるのだが、その主な入力ソースは日常の生活音であり家庭内で交わされる言葉である。無重力の宇宙空間では筋力が低下するのと同じように、音声刺激が少ないと聴覚は発達しない。

 

本題に戻るが、このシカゴ大学の研究は、ある貧困層の児の人工内耳成績が裕福な家の児に比べて悪かったことから、成長の過程で曝される言語量を比較している。貧困層では3歳までに児が聴くのべ単語数は、富裕層のそれよりも3,000万語も少なかった。知能が高く専門性の高い職業をもつProfessional familyと、教育をうけていない貧困層の家庭の合計42家庭で比較した結果、Professional familyの児は1時間あたり2,153語を聴くのに対し、貧困層の児は616語 (1分に10語!)しか聴いていない、ということがわかった。income levelと家庭内で子供に向けられる言語量には相関がありそうだ。そしてその言語量こそが、人工内耳の長期的治療成績を決めるのである。貧困層の児は言語 (つまるところ聴覚野)が育たないため将来的に就ける仕事が限られてくるだろう。先天難聴の世界でも経済格差は固定する傾向にある、というのが結論のようだ。

 

貧困層では何故かように言葉のシャワーが少ないのか?検討の対象はFamily on Welfareなので親の少なくともどちらかは家にいると考えれば、親が十分な教育を受けておらず語彙自体が少ない、ということが挙げられるか。幸福度が低く無気力な生活であることも影響するかもしれない。などなどをTutorとディスカッションした。

 

日本では人工内耳の手術適応を決める際に、適切な療育が受けられるかどうかも判断基準のひとつに挙げられる。人工内耳の医療費は多くの場合公費で賄われるので、家庭の収入によらず手術を受けるところまでは可能なのだが、適切な療育がなされない可能性や長期成績が期待できないケースが多くなることが予想されるとなると、適応を慎重に検討する必要があるのかもしれない*3

*1:視覚障害のある方の聴覚や嗅覚、触覚が異様に発達しているのはおそらく同様のメカニズムによる

*2:少しでも早い時期に手術ができるよう、医療技術やデバイスの進歩に伴ってより小さな月齢に適応は拡がってきている。

*3:格差が固定する原因を医療側が作ることは避けねばならないが現実問題として