「発声練習」という有名なブログで、言語技術の話題がでていた。
語学力+言語技術必要という話 - 発声練習
この言語技術というのは、自分の研究成果を論文という形で世に問う研究者にとっては必須スキルなのだが、日常生活やビジネスシーンにおいてもストレスのない会話をするために重要であったり、簡潔に要点を伝えるために必要であったりする。
話が分かりやすい人、分かりにくい人、自分や身の周りにもいろんな人がいると思う。その差を生むのは一体何なのか。才能?それとも努力?ブログに紹介された一連のまとめやTogetterを読んで、そういうことを考えてみた。
結論からいうと、言語技術すなわち「自分の考えを言語化して相手に伝える力」は、技術であって才能ではない。つまり、 (多少の初期値や上昇カーブの違いこそあれど)訓練によって身につけるべきものであるということ。
ひとつの例。May_romaさんの言語技術の必要性の話 - Togetterまとめ
このTogetterは外国語 (主に英語)における言語技術についての話題だが、論文やビジネスで使う伝達技術という意味では日本語も共通するものがあると思う。大事なことは、多くの日本人が義務教育 (+高等教育)の間にそういった技術を習得する機会を持たないということだ。少々話が飛躍するが、多くの日本人研究者が海外で苦労するのは、母国語の壁に加えてこの言語技術に習熟していない、ということが理由なのではないだろうか。研究に限らず、国際会議や外交の場での発言力にもこの問題が潜んでいる気がする。
思考を言語化し伝達する技術を、学校でも教えていくように変えていかないといけないと思う。才能ではなく、訓練した時間に比例して伸びる「技術」であるならば尚更。
さて、タイトルにも書いた「難聴」と言語技術の関係について書いてみたい。
私事で恐縮だが、幼少時より中等度→高度感音難聴である自分は、音声による意思伝達が苦手である。聞き取りがうまくできないことが多く、文字情報なしで何かを記憶することもあまり得意ではない。つまり、日常会話の中でごく普通に行っているレベルの「分かりやすい話をするための努力」の経験が、健聴者に比べて圧倒的に不足しているのだろう。入力される情報量の桁が違う、とも言える。
一方で文字を使っての議論やコミュニケーションには、幸いにもそれほど支障を感じない。本を読むことが好きだったせいもあるが、文章の読み書きには苦手意識はない (少なくとも日本語では)。脳の可塑性が失われる年齢まで聴覚入力が乏しかったため、コミュニケーション能力を担う脳の部分 (Wernicke言語野)への入力が、聴覚から視覚に一部切り替わっているのかもしれない。
実際、脳の可塑性や人工内耳についての多くの研究が、脳がより「柔らかい」時期からの音声入力の重要性について主張している。音声入力・出力に対する苦手意識や実際のスキル、視覚入力・出力との違いについて、他の難聴者に聞いてみたいところだ。
我が身を振り返って考えても、訓練によって少しずつ伝達能力を上げることはできるのではないかと思える。いや、今後研究者としてSurviveしていくためには、そうするしかないのだろう。博士課程に4年間いて初めて技術としての言語を学んだ気がしていて、若干遅すぎるスタートではあるが。