Beyond the Silence

Sound of Science

祖母との思い出

3月のある日、祖母が他界した。

もうずっと前から嚥下性肺炎で、経口摂取が困難な状態だった。点滴で生き長らえながらも意識はあり、少し認知症は進んでいたが会いに行くと喜んでくれた。

 

自分は祖母にとっての初孫であり、娘ふたりだった祖母にとっても初めての「男の子」だった。時代柄、それはそれは可愛がって育てられた。母は50代で亡くなるまでも病がちで、とくに自分が子供の頃はずっと入院していたので、祖母が母代わりとなって育ててくれた (そういうわけで、うちの父はマスオさんである)。今写真を見返すと自分と祖母は全然似てないんだけど、ちょっとマズいな、と思ったときに笑って誤魔化すところとかは似ていると言えなくもない。

 

 

人生の4割くらいを一緒に過ごした。あまり怒られた記憶がないが、それは自分が良い子だったわけではなく、ただ甘やかしてくれていただけだ。ちょっと濃すぎる味噌汁、毎日同じ弁当のメニュー、最高に美味しかった卵かけご飯*1。その全てが思い出だ。

 

一番の思い出は、2つめの大学の合格発表の日。果報は寝て待てといわんばかりに春眠を貪っていた自分に、医学部合格の知らせをくれたのが祖母だった。なんか嬉しそうだったので、もしかしたら受かったのかもしれないと思って一気に目が覚めたのを覚えている。大学在学中に祖父が他界し、祖母はちょっと (たぶんかなり)寂しそうにしていたので、こまめに帰省するようにしていた。国家試験に合格したときも喜んでくれていたなぁ。

あと、結婚式の時にお色直しってやつをやる機会に恵まれたので、そのエスコート役を祖母にお願いした。あのときが、一番嬉しそうにしていたかもしれない。

 

 

あとで気付いたけどうちはちょっと特殊な家で、あまり家族間で会話がなく、ただ空間を共有するだけで自然と絆みたいなものをお互いが勝手に感じとるようなところがあったので*2、祖母とちゃんと話をした記憶はじつはそんなにない。それともその感覚は難聴者である自分だけだったのか。もう少し話をしておけば良かった。

そんな祖母と母を、いちどだけドライブに連れて行ったことがある。菜の花で有名な地元の公園で、祖母と記念写真を撮った。「ばあちゃん」フォルダの中でもその写真はお気に入りだ。

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祖父が逝ってからの10年を元気に生きてきた祖母だったが、母が他界してから気持ちの張りがなくなったのか急に老いた。子を亡くす辛さははかりしれないものがあるだろうし、母の看病をしていたのも祖母と妹だったので、生きていく力みたいなものが失われていったのかもしれない。

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この頃風呂でいちど溺れたことがあり、義弟が助けてくれて祖母は生き返った。認知症の発症、妹が出産、長年住んだ家の建て替えなどが重なり、祖母はホームに入ることになった。帰省のたびに行っていたが温かく良い雰囲気のホームだった。3年前の夏、留学する直前にお別れを言いに行った。留学は少なくとも2年の予定で、何かあってもすぐに帰れるとは限らなかったから。しかし祖母は自分の帰国を待っていてくれた (と思うことにしている)。その間に、何度か転倒し、何度か骨折して、そして食事が入らなくなった。

 

昔で言う老衰。嚥下機能が低下して肺炎を発症する、いまでも癌・虚血性心疾患・脳血管疾患とならぶ死因のひとつであるが、医療が発達して自然な経過で死を迎えることは難しくなった。いちど気管内挿管をして呼吸器のスイッチを入れたら、それを切ることは今の法律では殺人と同義であるし、ただ生きているだけという状態が長く続くことは誰も幸せにならないばかりか医療費を圧迫する。我々の家族はその選択をせず、最低限の医療のみで自然経過に任せる道を選んだ。

医療者としての経験からどうしても「先」は見えてしまうので、その時が刻一刻と近づくのを感じていた。ただ今回は誰の目にもそれは明らかであったので、家族全員が心の準備をする時間があった。

 

 

誰もが死は避けたいものだが、その中にも「不幸な死」と「幸せな死」みたいなものがあるんじゃないか。それは死にゆく本人ではなく残される・見送る側の気持ちでしかないのだろうが、棺桶の中で微笑んでいた祖母をみて安心することができた。大往生といえる94年間の生涯に、感謝をささげたいと思う。

*1:実は味の素が入っていたw

*2:おかげでこの歳になるまでコミュ障である