恒例となっている昼休みのブログ巡回中にふとクリックしたこちらの過去記事にインスパイアされたので、自分という人間の現在を書いてみる。自分の知らない自分ってのもまだあって、書くことでわかることも多分ある*1。
自分の場合も、日々の出来事に対する心の動きはどちらかというとネガティブ思考で、うまくいかなかった場合の悪い想像がかなりの早さで広がるタイプ。なのでこの記事はよく理解できた。
でも、心のどこかに必ず「何とかなる」という楽観が確かにあって、それを一体の人間としてみるならば、自分は真ん中より少しポジティブ側かなとも思う。
「何とかなる」という楽観。
それはもしかしたら、自分がこれまでの人生でただ単に恵まれていただけかもしれない。ネット*2にはこの世のものとは思えない悲劇や負の感情が蠢いていて、それはごく一部の限られた事例を大げさに書いている場合も多いだろうとは言え、これまで自分が生きてきた人生とは違いすぎるのだ。五体満足でないという峻厳たる事実は抜きにしても。
逆に、他人より劣る、自分の力ではどうしようもないことがあったからこそ、上を見るしかないというか、マイナスからのスタートというか、引用記事のように考えるのが無意識下で習慣付いていたのかもしれない。
<追記>
私はとても恵まれていたと思う。中学受験を促してくれた親戚がいた。高校の学費を払うと名乗り出てくれる人がいた。人生最初の上司が面倒見のいい人だった。数えきれない運と人様の助けで偶然にも私は生存した。ただそれだけだ。
努力は運をつかむための入場券のようなものだ。努力なしに結果は手に入らない。だが努力する力すら奪われている人を罵倒しても何も生まれない。彼らを責めても、同じように無力だったかつての自分を傷つけるだけである。
これ読んで胸を打たれた。運という自分ではどうしようもないものに生かされている自分も確かにいるのだ。
<追記終わり*3>
もうひとつ、自分のどこか楽天的な思考回路は、母の影響による部分もあるのではないかと思った。母も自分とは違う障害を (とある特定疾患によって)得ていたが、身体は不自由でも心は誰よりも自由であった。自他を比較せず、己の中に絶対の基準を持っている人であった。不幸な境遇からも幸せを見つけ出す能力があった。不肖自分はそこまで強くないが、根底にあるものは同じもののような気がする。
母は1年の1/3は入院していたから、幼少時代に一般的な、ありふれたホームドラマにあるような母親とのスキンシップは少なかった。どこかにその反動は燻っていて、それも今の自分を形づくるピースのひとつになっていると思う。
本来のネガティブ思考に、そういった楽天的な何かを纏って自分という人間が形成されているということかな。
これを書きながら、なるほどそういうことだったのか、と気付くことが多かった。もうすぐ8回目となる母の命日がやってくる。帰国したら墓参りに行こうと思います。
小学校の時に映画館に見に行った時にもらったドラえもんチョロQ。当時流行っていたミニ四駆の塗料を使ってカラーリングした。母がずっと保存していたらしく、最近引き出しの奥から見つかったらしい。